このページは 2006年 12月 22日 11時56分13秒 に更新されました。
楽しめとは?
「献げ物を携え、食べ、喜び、楽しめ」。少し奇妙な説教題ですが、これが今日の説教題であります。これは今日の聖書の箇所、申命記の第12章6、7節及び、11、12節に記されていることの要約であります。ただし、この説教題には一つ、大事なことがぬけております。「献げ物を携え、食べ、喜び、楽しめ」。これは主なる神さまの命令になるわけですが、私たちはそれをどこで行うのか。「あなたがたの神、主の前にて」。この言葉がとても大切なこととしてここにはいるわけであります。そしてこれが今日の聖書の箇所の主題、「正しい礼拝のあり方」になるわけであります。イスラエルの民が40年間の荒野の放浪の果てにようやく入ることが許された約束の地を目の前にして、今まさにそこに入らんとするイスラエルの民に向かって、モーセは主の命令をこう語るのであります。1節、「これはあなたの先祖たちの神、主が所有して賜わる地で、あなたがたが世に生きながらえている間、守り行わなければならない定めと、おきてである」。
今まさにこれから入ろうとしている地、神さまが賜った約束の地、カナンに入ろうとしている民に向かって、その地で生涯にわたって守るべき定めとおきて。それが「正しい礼拝のあり方」であります。そしてこれは、もちろん、私たちにとっても「正しい礼拝のあり方」を導いてくれる定めとおきてであります。
この定めとおきてにおいて、主はその礼拝すべき場所を定めます。5節には「あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまいを尋ね求めて、そこに行き」と記されており、また11節の前半には「あなたがたの神、主はその名を置くために、一つの場所を選ばれるであろう」と記されております。それは私たちが選んだ場所ではありません。13節には「慎んで、すべてあなたがたがよいと思う場所で、みだりに燔祭をささげないようにしなければならない」。その場所を選ぶことはこちら側にはできないというのであります。つまり、私たちが日曜日の朝、天気が悪いからとか今日は気分が乗らないから家で礼拝しよう、どうせ神さまはどこにでもいてくださるのだから家で礼拝したっていいじゃないか、というようにこちら側の勝手な理由によってその礼拝の場所を定めることはできないと聖書は語るのであります。
楽しめとは?
スラヴォイ・ジジェクの『汝の症候を楽しめ』は、もともと1992年に出た本だが、今年になって「『リアリティはつねに複数である』のはなぜか」という章を末尾に加えた増補版が刊行された。その序文で著者は「私の標準的な本の形式は6章の長さであり、この本の初版は5章しかなかったので、8年の遅れをへた今になってはじめて『汝の症候を楽しめ』はまさしく私の本となった」と言っている。その直後に初版の邦訳(筑摩書房)が刊行されたというのは、こうしてみると、いささか間の抜けた話には違いない。この本は、例によってヒッチコックなどの映画に則しつつラカンの精神分析理論をざっくばらんに解説していくもので、いつも通りのジジェク節が展開されている。だが、新版のカヴァーに寄せる言葉でジョアン・コプチェクの言うとおり、『汝の症候を楽しめ』というタイトルは、当時からどんどん強まってきた「他者の倫理」(「他者に応答責任をとれ」)と真っ向から対立するものと言ってよく、そうしてみると、ジジェクが当時から一貫してそういう立場を取り続けてきたことが、この本を読み直すことであらためて確認されるだろう。もちろん、ジジェクの立場はきわめてトリッキーなもので、表面的にとるととんでもないことになりかねない(たとえば、石原慎太郎は、チックを繰り返しながら外国人嫌いの発作をとことん「享楽」していればいいので、外国人労働者への責任などを偽善的に語り出すのはかえってよくない?!)。むしろ、それは、いかなる他者をも傷つけまいとして政治的不能に陥ってしまう(そして結果的にすべての他者を傷つけることにもなりかねない)という最近の「批判的知識人」の傾向への批判として、一定の意味を持つように思われるのである。
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