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このページは 2006年 12月 22日 11時51分01秒 に更新されました。

カイオとは?

カエサルの名前は現在でもヨーロッパでは人名や月の名前の他に、通りやホテル、映画館(!)の名前に使われていますが、なんとイタリアの戦艦の名前にもなりました。
英国海軍が1906年に完成させた戦艦「ドレッドノート」は、それまでの戦艦をことごとく“前世紀の遺物”にしてしまうほどの衝撃を与えた艦で、以後列強は「ドレッドノート」に匹敵するレベルの戦艦の開発に全力を挙げるようになる。これがいわゆる「ド級戦艦」と呼ばれるものである。
カイオ・ジュリオ・チェーザレ」も、その「ド級戦艦」の1つで、第1次世界大戦までイタリア海軍の仮想敵国だったハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)の海軍(に対抗する目的で建造されたものである。しかし結局、第1次世界大戦においてはこれといった活躍の場が無いまま終戦をむかえる。次いで22年のワシントン条約によって10年間の戦艦建造禁止と戦艦の保有比率が決定(米英:5 日:3 仏伊:1.67)されるといよいよ海軍の活動は低調になり、26年に「チェーザレ」は予備艦にまわされることになる。が、第1次世界大戦後の欧州経済の混乱とファシズム台頭の波はイタリアにも及び、22年に政権についたムッソリーニは「古代ローマ帝国の再興」を唱え、再び軍備の増強に着手することになる。新たな仮想敵国となったのはフランス海軍で、ネイバル・ホリデーが明ける32年に仏海軍が発表した新戦艦「ダンケルク」に対抗するため、予備艦に回っていた「チェーザレ」と「コンテ・ディ・カヴール」を急遽現役に復帰させ、大規模な改装を開始する。ところが、ムッソリーニは海軍の再編が整うのを待たずにエチオピアへの侵攻を開始。これに対し、英仏を中心とする国際連盟が経済制裁を発動したため、物資が不足して両艦の改装工事は大幅に遅れ、完成したのは1937年になった。その間、ムッソリーニ政権はスペイン内戦干渉(36〜39)や日独伊三国防共協定(37年)、国連脱退(38年)などでナチス=ドイツとの関係を強化する。1939年、第2次世界大戦開戦。当初イタリアは第1次世界大戦の時と同じく傍観を決めこみ、参戦を決定したのはフランスがドイツの電撃戦の前に屈服する直前の40年6月。が、この時点でまだイタリア軍は臨戦体制が整っておらず、燃料の備蓄もわずか9ヶ月分。まさに「バスに乗り遅れるな」式の参戦であった。参戦したイタリアは、「チェーザレ」を始めとする戦艦部隊を含む大規模な輸送艦隊を編成し、植民地リビアへの補給を行う。その作戦のさなかに起こったのが

[引用サイト] イタリア戦艦「カイオ・ジュリオ・チェーザレ」


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